2014年7月20日日曜日

有と無の四つの様態の区別と幻の如き存在

 中観派の帰謬の勝法の基本的な主張の一つに、

  1. 単なる存在
  2. 自性による存在
  3. 単なる無
  4. 自性の無
を区別するという表現の仕方がある。このうち、2は有辺に陥り、3は無辺に陥り、1と4が同時に相即してなりたつことが、中観派のみの主張する勝法ということになる。

 しかし、「幻の如き存在」というのは、この四つのカテゴリーの中には位置を占めていない。にも関わらず、『ラムリム』からすでにこの表現は何度も用いられている。

 この四つのカテゴリーは、何があり、何がないか、ということについての、複雑な位相を持った表現である。「一体そもそも何が存在するのか」というような単純な問題ではない。表現は単純であるが、有と無が関連して述べられることによって、見かけほど単純にシンメトリカルな内容を持っているわけではない。

 しかし、いずれにせよ、これは存在・非存在のあり方の分類であり、しかも正しいものだけではなく、否定されるべき誤った設定も一緒に述べられているものである。

 ところが、「幻の如き存在」というのは、存在あるいは非存在のあり方ではなく、そのように認識する人の判断である。すなわち、中観の見解を得た人によって、あるいは聖者の三昧知の中で諸法がこのように理解される理解のされ方、捉えられ方である。

 昨日挙げた『三つの捉え方」というのが、まさに、存在・非存在の様相ではなく、それを存在論的前提としながら、それがそれぞれの段階の人にとってどのように捉えられるかという問題になっている。

 この区別を付けておくことは、中観派の不共の勝法の思想における幻の如き存在の位置づけと評価を考える上で、欠くことのできない観点となる。しかも、同じ認識主体との関連で二諦が設定されるツォンカパの後期の二諦説とも、似ているところと異なったところがある。幻の如き存在という表現は後期に至るまでずっと用いられ続け、たとえば『ラムリム小論』でも一節を充てて論じられている。

 同じような思想を巡って、様々な表現をしているツォンカパの中観思想だが、それらが似ているだけに、その微妙な違いを明確に意識することは是非とも必要なことだと思う。

2014年7月19日土曜日

単なる存在と幻の如き存在

 忘れないようにメモしておく。

 幻の如き存在というのは、後期に至るまで生き残る中観派の不共の勝法の思想そのものであると思って来た。もちろんその一部をなしていると言えるだろうが、ただ、縁起と空性という分け方をしたとき、その縁起あるいは現れの側面、あるいは、単に存在していると言えるもの、つまり言説有と、幻の如き存在は別のものだった。

 『ラムリム・チェンモ』の自立論証批判の箇所に、芽を捉える知に三つの捉え方があると言う。
  1. 芽に、それ自体で成立している自性があると捉える「真実に存在しているという捉え方」
  2. 芽はそれ自体で成立しているものではないが、幻の如くに存在していると捉える「偽りで存在しているという捉え方」
  3. 真偽いずれによっても限定されずに「一般的に存在しているだけという捉え方」
である。この2と3が異なった捉え方であるということが、きちんと書かれている。中観の見解を得ていない衆生には、1と3はあるが2はない。つまり幻の如き存在という見方はできないのである。

 これらは、後期の二諦説が、それを捉える意識と相対的に設定されるのとは必ずしも対応していない。1は後期の世俗諦であり、2は後期の唯世俗であるが、3は言説有ではあっても、二諦の中に位置を占めていない。逆に後期の勝義諦は、この3つの捉え方の中には見られない。

2014年7月13日日曜日

帰謬派にも主張はある?

 一部の人たちは、ツォンカパの思想の根本的な動機の一つに、帰謬派にも積極的な主張があるということを主張することがあると考えている。

 これは、「正しい見解」(正確にはlta ba「見解」としか言わない)と、「承認すること」(khas len)との区別に無頓着な理解ではないだろうか。

 前述の「レンダーワへの書簡」でも「道の三種の根本要因」でも、解脱の因の根本としてあげられているのは、出離の心と菩提心と見解とであり、この見解が中観帰謬論証派の中観思想、特に中観派の不共の勝法と呼ばれるものである。この正しい見解がなけば、いくら出離の心を起こし、菩提心を起こしたとしても、それらを支えて一切智者へと向かうことを支えることはできないのである。

 そもそも輪廻の根本は無明であり、無明とは明がないこと、すなわた無知なことである。闇に光が現れることで闇が消えてなくなるように、無明を滅ぼすためには智慧が必要である。智慧が現れることで無明は消えてなくなる。そして智慧とは真実についての正しい理解の究極のものである。真実とは仏教においては空性以外にはない。そこで空性について、そしてそれと不可分のものである縁起についての正しい見解を持つことが、無明を滅ぼす必要不可欠の条件となる。

 しかし、「承認」という言葉はそのような正しい見解について用いられることはない。これは、言説に世界における言説的行為(つまり、言葉を用いて話をしたり考えたりする日常の行為)について、それを実体的に執着することなく、その言説の世界における因果関係が成立することを「承認」することに他ならない。これはもちろん、縁起を正しく評価することであり、そのことが正しい見解の一部を構成するのではあるが、要するに言説の世界が縁起していることを「承認」する必要があるということであり、これを「承認」せず、言説の世界を否定することによって勝義に達するという見解を否定するために言っていることである。

 確かに帰謬派は言説の世界を「承認」するが、そのことが「積極的な主張がある」という意味でないことは、以上で明らかであろう。

ツォンカパが聖文殊の教えをレンダーワに書き送った書簡(前半)

 次の日と書いたが、『聖文殊の教えのレンダーワへの書簡』の翻訳がなかなか進まない。たぶん永遠に終わらない気がしてきた。分からないところが多すぎる。テキストにも問題がありそうである。いくつかの版を見たが、文字は同じであった。口語的な表現らしきものも多い。もっと丁寧にゲシェに教えてもらう必要があるだろうが、とりあえず、間違っていることを承知で、半分くらいまで文字化したので、それを掲載しておく。雰囲気は伝わると思う。

ジェ・ツォンカパに聖文殊が教えられたことの中から、結論のみを要約して、ご恩の大きい師匠であるレンダーワに書簡にして差し上げたもの


 〔聖文殊との対話の中で〕生じた、信頼できる事柄(yid ches kyi gnas)と考えられることには、信頼できる印がたくさんあるけれども、〔ここに〕書き記す余裕はないので、要約して記すならば、私に、〔何かを〕判断するような見解〔全て〕を離れる〔ことが〕帰謬派の教義であると修習していたけれども、〔聖文殊に〕よくお伺いをたてたところ、「まだ理解できていない理由がある」とおっしゃった。

 そこで、長い間、議論と考察を行い、「帰謬派の哲学には、このようなことが必要となる。あなたの心には、このようなことしかない」などたくさんのことを〔聖文殊は〕おっしゃった〔が、それら〕は、聖父子(ナーガールジュナとアーリヤデーヴァ)のテキストと一致させておっしゃったことであるので、〔私が〕理解できていない〔だけだ〕と知った。

 そこで、〔帰謬派の哲学を〕理解できるようになる方法をお伺いしたところ、教えて下さった〔方法〕を実践したことによって、今は、これまで理解できていなかった縁起の自性を初めて理解でき、大きな確信を得られるようなことが起こったのである。

 それについても、一般的には空である〔ことを理解する〕ことによって有辺(実体的実在論)を退け、〔諸存在が〕現れている〔現れ方を理解する〕ことによって無辺(虚無論)を退けるというこのことは、ローカーヤタ(順世外道)に至るまで共通した〔考え方〕である。

 それに対して帰謬派の〔不共の〕勝法では、〔諸存在が〕現れること〔を理解すること〕によって有辺を退け、〔諸存在が〕空である〔と理解する〕ことによって無辺を退ける。また空〔であるもの〕が因果〔関係にあるもの〕となることを知る必要がある。

 そして、輪廻〔から〕涅槃〔に至るまで〕の諸存在は、因に依って果が生じ、〔その因果関係が〕整合性を維持していること(mi slu ba'i tshul)を自らの心において承認し、その〔因果関係の整合性〕によって一切の辺(実在論と虚無論)を退けるという空になることなど〔の話〕を無量にあるいは詳細に〔行った〕。

 要約すれば、考察されない、あるいは相手の立場で、あるいは言説として因果〔関係〕は欺くことがないこと、考察したならば、あるいは自説においては、あるいは〔ものの〕実相(gnas lugs)としては、欺くとも欺かないとも設定することができないというような〔見解は正しく〕ない。

 考察されないということの意味は、欺かないこと(テキストはslu baだが、bka' 'bum thor buにおけるレンダーワ宛て書簡ではmi slu baになっている)であると理解し、考察したならば「これである」と〔確定的な判断は〕得られないことから、今度は、因果〔関係〕を理解して、その二つ(=縁起と空)が同一の基体に適用されることを考えて、縁起と空が分けられないと言うのでもない。原因によって結果が生じることが欺くことがないと理解する、その同じ知によって、他の知に依ることなく意識を向けられた〔対象〕が消滅するという空もまた成立すること、そして因果〔関係〕が欺かないという論証因だけで、他の論証因に依ることなく有辺〔や無辺〕などを離れた空が成立することから、因果〔関係〕が欺かないことについて根底からの確信が引き出され、他ならぬそのことによって意識の向けられた対象全てが消滅し、何も思い込むことのない〔覚り〕もまた得られのである。

 以前にも、そのような言葉は後に〔根底からの理解が得られたとき〕と変わらずにあったけれども、確信はずっと引き出されなかった。我々の考えについて私が理解していないならば、私と先生(レンダーワ)は違いがないので、先生もお考えにならないと思って〔この手紙を〕差し上げたところ、我々には考えがあるけれども、詳細は何も知らないとおっしゃった。

 それ故、〔哲学的〕見解(ものの見方)の究極的な本質はこうであり、行のデリケートな本質や、実践の道になるかならないか、顕密の非常に難解な本質などについて、以前には疑問があり、考察して〔も、理解〕が得られなかったことが、正しい論理の力によって論証されることを知ったことにより、疑問の匂いさえも無くなって、信頼が生じたのである。

 〔聖文殊は〕この〔帰謬派の〕学説に関して現在〔行われている〕講義と聴聞、修習と実践という二つ〔のうち〕講義と聴聞を重要視なさり〔次のように説かれた〕。一般に法門はたくさんあるけれども、解脱の因になるのは三つである。すなわち、出離の心と菩提心と見解とである。現在、この三つについて〔自分の身に付いた〕経験が生じたものはおろか、この三つについての正しく理解するものも稀である。

 この〔三つの〕うち、最初の二つを理解することでは、解脱の種を植えることはできず、最後〔の見解〕の力が強いので〔それによって解脱の種を〕植えることができる。

 それについても非常に努力して、そのイメージに心を向けて、〔それに〕習熟した力によって心が変化したら、努力を伴った経験が生じるので、それによって解脱の種を植えることはできるけれども、道の終端には達しない。

 輪廻における安楽と財産や衆生のことを心に思っているだけで、出離の心と菩提心が常に湧き起こる経験が生じたならば、〔それは〕資糧〔を積む〕低い段階であると考えるのである。

 輪廻〔において〕体験すること〔デメリット〕と、解脱のメリットを理解する正念正知(dran shes)を常に行って、〔輪廻におけるデメリットの〕体験に心が向かわせず輪廻の禍患を断ち切り(bcar -> bcad)、解脱のメリットに心を持して、そのイメージに習熟して出離の心の経験を生じさせずに、布施、戒律、忍耐、精進、禅定という善根に習熟しても、解脱の因には決してならないので、解脱を求める人は最初に、深遠な教えであると言われるもの全てを措いて、出離の心の考察を修習すべきである。

 大乗を実現する人は、自利に心を向けるという過失と利他のメリットを今すぐに正念正知を行い、菩提心の経験を生じるためのイメージトレーニングを行わないならば、他のことを何をしても〔覚りへの〕道〔を行くこと〕にはなりえない。なぜならば、もしそうでないならば、諸々の善根が自利に左右されて、劣った覚りの因にしかならないからである。たとえば、出離の心を正念正知しイメージトレーニングをしないならば、全ての善は〔輪廻の〕デメリットに左右されて、ただ輪廻の因となるのと同様である。

 したがって、密教などについての深遠だと言われている教えを捨て措いて、最初に出離の心と菩提心の経験を生じることを願うべきである。

 それが生じたならば、それからの全ての善は、解脱と一切智者の因に自然となっていくので、したがって、この〔出離の心と菩提心〕を修習することは価値がない(rin mi chog pa)とすることは、道の本質を全く知らないものである、と〔聖文殊は〕おっしゃっている。

2014年7月6日日曜日

聖文殊師利の道の要諦について聖レンダーワに差し上げた書簡 | ツォンカパ

rje btsun 'jam dbyangs kyi lam gyi gnad rje red mda' ba la shog dril du phul ba bzhugs so //

 書かれた時期は分からないが、ツォンカパ全集のPha巻に含まれている数フォーリオの著作。挨拶も抜きに本文が始まり、コロフォンは別人が書いている。信頼できるのかどうか、微妙。ダライラマ5世の聴聞録を確認した方がいいかもしれないが、ここでは一応、新作として扱う。

 文殊との会話、特に文殊のおっしゃったことが一番豊富に残っている。その話の中心は『道の三つの根本要素lam rtso bo rnam gsum』と被っている。ただ、文殊が教えているので、人間が書いた『三要点』よりも分かりづらい。

 内容が豊富なだけに、中観派の不共の勝法のみに焦点を合わせているわけではない。『三要点』の見解に当たる部分が、この書簡では最初に序論のように述べられている。後は実践的な話が多いのが特徴。

 今日は突然思い立って、ゴマン・ハウスでゲン・ゲルクに読んでもらったが、思いツタのが昼前なのでほとんど予習なし。最初の序論的な部分のみしか読んでいなかった。そこは分かったがその後からはほとんど聞き取れなかった。帰って読み直してみたら大分分かったので、やはり予習をして出ていくのが大事である。

 『三要点』は出離の心と菩提心と見解であり、さらにそこに奢摩他と毘鉢舎那との関係が関係して内容は複雑である。続きは明日。