2014年12月28日日曜日

言説有の設定(普通の人の捉え方)

 自立派を含む実在論者は「自性(自-相)によって成立しているもの」を承認するが、帰謬派はそれを言説においても認めない、という点に実在論者と帰謬派との違いがあるわけだが、『善説心髄』の説明は少し異なっている。

もちろん、前回見たように、自立派と帰謬派の相違は、言説において自-相によって成立する存在を認めるか認めないかという点にあることには違いはなく、その点は初期から後期に至るまで変わらない。それに対して『善説心髄』の特徴は、「どのように把握するときに、自-相によって成立していると設定されるのか」を問うたことにある。それに対する答えが、命名の基体=根拠を探し求め、それが得られたときに、その対象の存在を措定できる、そのことが「自-相によって成立している」ことの意味であるという診断基準である。帰謬派の立場では、そのような命名の基体=根拠は得られず、したがって、それら対象は「自-相によって成立するもの」ではない。それ故、それらの存在は、ただ名付けられただけの存在であることになる。「名前だけのもの(ming tsam)」あるいは「施設(仮設)されただけもの(btags pa tsam)」と言われるのも、それを指している。

「自-相によって成立しているもの」を勝義においては認めないが言説において認めるのが自立派であり、それを二諦のいずれにおいても認めないのが帰謬派である、という違いが、命名の基体を求めて得られると主張するのが自立派(その他の実在論も同様)、そのような命名の基体を求めても得られないと主張するのが帰謬派という違いへと還元されることになる。

この区別に対してさらにもう一つ別の対比が付け加わる。自立派に対する帰謬派の批判は、哲学的な水準のものである。すなわち、命名の基体が何であるかを探し求め、それが見付かるか見付からないかを問題にするのは、もともと哲学説上の議論であり、哲学に毒されていない普通の人は、そのような問いを立てることはない。自立派に対する帰謬派のもう一つの批判は、この点を指摘することによる。すなわち、言説においての存在は、言葉の意味対象の実体を問うことなく、言説において言葉を使用することによって成り立っている。すなわち、命名の基体、あるいは言葉の意味対象の実体を探し求める問いを問うこと自体が実在論者の思考方法なのであって、普通の人はそのような問いを問うことなく言語活動を円滑に遂行しているのである。これが「考察することなく〔言説において存在を〕設定すること(ma dpyad par 'jog pa)」と言われる。

一般の人の「考察しない」把握の仕方について、ケードゥプジェが『千の要点(stong thun chen mo)』において分かりやすい例を挙げて説明している。

 dper na lhas byin dang 'phrad par 'dod pa zhig gis khang pa gang na bya rog sgra sgrogs pa 'di na lhas byin yod do zhes pa'i ming tsam gyi rjes su 'brangs nas khang pa de'i nang du zhugs na lhas byin dang phrad par nus kyi / 'di'i nang na yod pa'i lhas byin zhes bya ba'i ming de gang la 'jug pa'i gzhi kho rang gi phung po rnams dang rdzas gcig tha dad ji lta bu zhig yod ces sogs su brtags pa na 'di 'dra zhig tu yod ces rnyed nas de dang 'phad dgos na lha byin dang 'phrad pa mi srid par 'gyur te / de ltar btsal na gang du'ang mi rned pa'i phyir ro //(TTCM, zhol, 86b2-4)
 たとえば、デーヴァダッタに会いたいと思う人が、カラスの鳴き声のする家にデーヴァダッタがいるという言葉だけに従ってその家の中に入〔れば〕デーヴァダッタに会うことができけれども、この中にいるデーヴァダッタというその名前の指し示している対象(gang la 'jug pa'i gzhi)は、彼の〔五〕蘊と同一の実在であるのか別の実在であるのか、どのようなものであるのかなどと分析して、このようなものであると見つけて(=認識して)から、その人と会わなければならないとしたら、デーヴァダッタと会うことはできないであろう。なぜならば、そのように探し求めたならば、どこにも〔デーヴァダッタを〕見出すことはできないからである。

このケードゥプジェの説明では、実在論者が目的の人の名前の意味対象の実体を詮索しているのに対し、単に言葉だけに従って行動した人は目的の人に会えるという対比と、探しても名前の意味対象の実体は見出せないということとが両方説かれているが、言葉だけに従った人は、そもそも意味対象の実体を詮索していないので、見出せないというのは、「もし詮索しなければならないとするならば」という仮定の上での仮想的な帰結にすぎない。要するに、普通の人はそのような詮索はしない。ということを強調しているだけである。言い換えれば、そのような詮索は非現実的であるということである。

このことは、またその普通の人が、対象の空性を理解しているわけではないということとも符合している。普通の人も、その対象が「名前だけのもの」「名付けられただけもの」と捉えているわけではない。彼も、デーヴァダッタは対象それ自身においてデーヴァダッタであると考えている。

 de ni phyi nang gi chos rnams tha snyad kyi dbang gis bzhag pa tsam min par rang gi ngo bo'i sgo nas yod par 'dzin pa ste / de yang mchod sbyin la sogs pa'i gang zag la de ltar 'dzin na gang zag gi bdag 'dzin dang mig rna la sogs pa'i chos la de ltar 'dzin na chos kyi bdag 'dzin yin la das bdag gnyis kyang shes par bya'o //(LN, zhol, 68b2-b3)
 それ(=倶生の真実把握 lhan skyes kyi bden 'dzin の捉え方)は、内外の諸法が言説の力よって設定されただけのものではなく、それ自体の方から(rang gi ngo bo'i sgo nas)存在していると捉えることである。それについても、ヤジュニャダッタ(mchod sbyin)などの人(gang zag)をそのように捉えるならば、それは人我執であり、目や耳などの法をそのように捉えるならば、法我執である。これによって〔一般に〕二我についても知るべきである。

この二つの我執は、倶生のものであり、衆生に普遍的に存在しており、それこそが衆生を輪廻に縛りつけているものとである。ただ、実際に中観の論書の中ではそれらが主題的に取り上げられることは少ない。ツォンカパ自身も指摘はするものの、その具体的な分析は少なく、同じような表現が繰り返し用いられるだけである。ここにも見られるように、実際には言説のみのもの、名前だけのもの、名付けられただけのものであるのに、そのように「言説の力よって設定されたものではなく、それ自身の方で成立しているもの」と言及されることが多い。この表現自身は、もちろん、それほど難しいものではなく、全ての存在を言説によって設定された、名付けられただけのものと理解できずに、それ自体でそのように存在していると信憑している。一般の衆生の認識のこの二重構造(名前だけに従って行動し、その実体が何であるかの分析をしないことと、しかし名付けられただけのものであるとは思わずに、それ自体でそれとして存在していると思いなしていること)は、後期の二諦説の中でも、世俗諦と唯世俗の対比の中に組み込まれていく。


 ツォンカパの議論は、自-相によって成立するものを設定するために、言葉の意味対象の実体を特定しなければならないという実在論者の立場に対して、普通の人が言葉だけに従って有効な日常行為を遂行していることを対比させることによって、意味実体に対する考察を行うこと自体を無効な哲学的謬見と規定すると同時に、そのように考察したときに意味実体が存在しないことが「自-相によって成立しているもの」を欠いた空性として設定される、という非常にデリケートな論理の上に成り立っているのである。

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