2013年5月6日月曜日

二諦のいずれにおいても自性は否定される

 もう少し、「勝義において」「世俗において」という限定辞の意味を説明しておきたい。

 この二つの限定辞は、諸法が勝義においては存在せず、世俗においては存在する、というように肯定・否定で相補的に用いられることは事実であるが、一方で、勝義において否定されるものは、世俗においても存在しないとも言われる。これは矛盾していないだろうか。

 世俗の存在は、自性の無、すなわち勝義における存在の否定を認識する正理知によっては否定されることはない。もう一方で、その正理知によって否定される自性は、世俗の知である言説の量によって認識されない。確かに世俗の知に対して対象は自性によって成立しているように現れる。しかし、その自性は世俗の知によって、その存在を確定されず、正理知によっては、その存在は否定される。そのとき、対象は勝義においては存在しないことが確定される。

 しかし、それだけではなく、そのように勝義において存在しないものは、世俗においても存在することは否定される。しかし、世俗の知によってはそのことは確認されるわけではない。どうして勝義において否定されたものが、世俗においても存在しないことになるのであろうか。

 このことは、「勝義において」と「世俗において」が相補的な関係にあって、対称的な関係にないことに基因しているのだろう。勝義において存在せず、世俗において存在する、とされるものは、一切のダルマ、すなわち全ての存在である。一方、勝義において否定されるのは、自性によって存在するものであり、これはいかなる意味においても存在しない、端的な、無限定的な非存在である。それらは存在するとすれば、勝義において存在するものとなり、それはいかなる意味においても否定されない存在となる。それが否定対象である。そして、そのような自性によって存在するものの否定は、自性の有無を考察する正理知によってもたらされる。それは「勝義において」否定されるわけではない。正理知は自性の有無を考察し、そしてそれによって得られないが故に自性の存在が否定されるのであって、勝義においては自性は存在しないと否定するわけではない。

 このことはまた同時に、「自性によって」という限定辞と「勝義において」という限定辞が等価(同じ意味であるわけではない)のものであるという帰謬派の(すなわちツォンカパの)主張と同じことを意味している。それに対するに自立派は、これら二つの限定辞の意味が違うが故に、「自性によって」を否定するときに、「勝義において」という限定を付す必要があると主張することになる。

 こうして、「勝義において」存在せず「世俗において」は存在する、という表現と、勝義において否定されたものは世俗においても存在しない、という表現とが矛盾しないことが確認される。

 

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