2013年5月5日日曜日

「勝義において」という限定辞

 ツォンカパの思想を理解する際に、二諦の問題は様々な問題をはらんでいる。新たな解釈を提起しているようで、また同時に必ずしも記述が整理されているとは言えない。

 厳密に言えば、二諦とは「勝義諦」と「世俗諦」の二つを指す。しかし、ツォンカパの中観思想の初期から中期にかけては、二諦に対する直接的言及よりも「勝義において」「世俗・言説において」という限定的な表現の方が多く見られる。これらは厳密には二「諦」ではないが、勝義と世俗という二諦を構成するファクターについてのツォンカパの理解を探る上で欠かすことはできない。それどころか、初期のツォンカパは二諦の問題を後者のような表現を通して理解していたと言った方がいいだろう。私が以前「ツォンカパの二つの二諦説」という論文を書いたのも、そのことに気付いたからである。

 ツォンカパの中観派の不共の勝法の主張は、一切法、すなわちすべての存在は「勝義においては」存在せず、「言説においては」存在している、という肯定と否定の述語が同時に成り立つことにある。これは、それぞれ勝義無と言説有に対応する。「勝義において」と「言説において」は、存在と非存在の様態についての限定辞であり、常に同時に矛盾することなく成り立っている。これが、少なくとも、初期のツォンカパにとっての二諦説であった。

 言説において存在するということは、我々が日常的に考えたり話したりしている対象として存在しているということである。言い換えれば、それらの対象は、我々が普段、それについて何かを言い、また何かを考えている対象であるということである。したがって、「言説において」という限定が付されてはいるが、これは「存在すること」に対する様態の限定要素ではなく、存在すると「言える、考える」ことが可能である、という意味である。こうして、「言説において存在すること」は、存在・非存在の四つの様態のうちの「単なる存在」、すなわち限定なしに「存在する」ことに相当する。

 勝義と世俗をこのように考えることによって、それらは「中観派の不共の勝法」の主張に吸収され、また、その存在論によって、勝義と世俗の関係も、そして二諦の意味も再解釈されることになる。

 『菩提道次第大論』には、否定対象を否定するときに「勝義において」という限定を付すべきか否かについての議論がある。これはもともと、自立派たるバーヴィヴェーカがブッダパーリタを批判して自説を主張するために提起した問題である。しかし、ツォンカパはそのバーヴィヴェーカの批判を退けている。バーヴィヴェーカは、「それ自体で存在するもの」を否定するために「勝義において」という限定辞を必要とする、と主張する。そのことは逆に、「勝義において」は、「それ自体で存在するもの」は存在しないのだが、逆に勝義においてでなければ、すなわち世俗においては「それ自体で存在するもの」を認めていることになるとツォンカパは言うのである。

 自立派は、言説においては、自らの特質によって成立しているもの rang gi mtshan nyid kyis grub pa'i rang bzhin が存在し、それを「勝義において」否定することが無自性 ngo bo nyid med pa の意味であると考えているとしてツォンカパは自立派を批判するのである。このような存在論が当のバーヴィヴェーカの考えていたものかどうかは分からない(それを追求するのは別の仕事である。)しかし、ツォンカパは、もしかしたら何気なく(あるいは不用意に)述べられたバーヴィヴェーカの言葉から論理的に導かれる不都合な帰結を導き出そうとしているのである。

 諸法は勝義においては存在せず、言説においては(言説の対象としては)存在するという二面性は、それら諸法が幻の如き存在であるという別の主張の内実である。二諦説の言及は、前期と後期で大きく変わるが、しかし、諸法を幻にたとえる理解は全期間を通じて一貫している。そのことについては、また次の機会に触れることにする。

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