2013年5月26日日曜日

幻の比喩の解釈

 「幻の如き現れ」という表現はツォンカパの中観関係テキストのみならず、全テキストに初期から後期に至るまで頻出する。それだけツォンカパにとってお気に入りの概念だったと言うことが出来るであろう。

 前回は、特に後期の『菩提道次第小論』に節を立てて論じられる部分を訳出した。ここでは、その意味を考えてみることにしたい。

 今回和訳したところは実は若干の精粗の違いや言葉の異同はあるにせよ、ほとんど、最初期の著作『菩提道次第大論』と重複している。ここの部分は初期から後期に至るまで同じ思想が持続していることを示している。

 以下に示すように、この幻の比喩の根底には中観派の不共の勝法と同じ存在論が前提とされ、またそのことを示すための別の説明となっている。それが、表だって中観派の不共の勝法に言及することのなくなった後期においても、ほぼそのまま受け継がれていると言うことは、存在論的には、同じ思想がずっと根底にあることを示しているであろう。

 前回の私訳を通読すれば、そこで同じ内容が何度も繰り返し語られていることに気付くであろう。幻や鏡像を喩例とし、人や法について、

  1. 言説知に現れていること
  2. 正理知によって自性の存在が否定され、それらが自性によって成立しているものに関して空であること
この二つの事態が同時に成り立っていると繰り返し主張する。言葉を変えてさえいない。同じ言葉を何度も繰り返している。試みに、1と2のそれぞれに分類できる表現をピックアップしてみよう。

 まず、1の「現れ=縁起」と同じことを述べているのは、

  • あるものとして現れること
  • 人として現れること
  • 業を積むもの、見られるもの・聞かれるものなどの縁起している因果関係にある全てのもの
  • 人などが言説知に疑いようもなく現れる
  • 現れが立ち上がる
  • 疑いようもなく現れている人についての諸々の言説
  • 人が「業を積むもの」「果報を感受するもの」として措定される縁起の側面
  • 業を積むもの、果報を感受するもの、前世の業・煩悩によって転生すること

 一方、2の空の側面については次のような表現が用いられている。

  • 現れたものが存在に関して空である
  • それ自体で成立している自性に関して元から空である
  • 自らの特質によって成立している自性は微塵もない
  • 人が、それ自体で成立している自性に関して空であると正理知で確信する
  • 諸法に、それ自体で成立している〔自性〕があるかないか考察する正理によって繰り返し考察したのち、そのような自性は存在しないという強固な確信が生じる
  • 人に、自性によって成立しているものは少しもないという確信を強固なものとする。
  • 人についても、自性によって成立しているものは塵ほども存在しない
などと言われる。ここでは、空であることとと、正理知によってそのことの確信を獲得するという二つのことを区別せずに挙げた。

 いずれにせよ、この縁起の側面と空の側面は、常に対になって述べられ、しかも「空であるけれども、現れる」あるいは「現れることと空であることの二つが同時に成り立つ」という文脈で用いられている。これは、中観派の不共の勝法と同じ構図である。

 実際、『菩提道次第大論』で「人が幻の如く現れる」という科段のもとに、この『菩提道次第小論』よりもやや詳しい内容が見られる。また、ここに訳出しなかった「幻の如くに現れる誤った〔現れ〕方」の中に、
前に説明した否定対象の境界線を正しく把握しないままに対象について正理によって考察して分析するとき、その対象が存在しないという〔考え〕が最初に生じ、それから考察をしている人についても、それと同様に思われて、〔対象が〕存在しないと確定する人もまた存在しないので、何についても「これである、これでない」という確定をする余地がなくなってしまって、現れが曖昧なものとなった〔そのような〕現れが立ち上るのも、自性の有無と単なる有無を区別しないことによって生じたものであり、したがって、そのような空性も縁起を破壊する空性であり、それゆえ、それを悟ることによって導き出される〔霧のように〕曖昧模糊として立ち現れる現れもまた、幻のごとく〔現れること〕の意味では決してないのである。
とあるように、「幻の如き現れ方」の誤った理解も、結局のところは自性による有無と単なる有無という四つの様態の違いを区別していないことに帰着する、とツォンカパは言う。この四つの様態は既に述べたように、ツォンカパ中観哲学の最初の主著である『菩提道次第大論』毘鉢舎那章の中心思想である「中観派の不共の勝法」の一パターンである。それがこのように最後期の『菩提道次第小論』にも言及されているということは、たとえ「中観派の不共の勝法」という呼称が用いられなくなったとしても、その根本思想は後期に至るまで受け継がれていると言えるであろう。

 もちろん、単純に「中観派の不共の勝法」の思想が後期にまで持続したと言えるわけではない。この『菩提道次第小論』の幻の如き現れの箇所は、人無我の詳論の中に含まれるが、その人法二無我の議論そのものが、『菩提道次第大論』の人法二無我の議論からの採録になっており、それに先行する『大論』の否定対象の議論と自立論証批判とは『小論』ではなくなっているが、否定対象の議論が「中観派の不共の勝法」を詳述する箇所であり、自立論証批判と人無我の議論は、その応用にすぎないからである。

 さらに二諦に着目すれば、『大論』と『小論』の違いが認められ、その二諦の詳細な検討こそが後期思想の特徴とも言えるのである。

 いずれにせよ、ツォンカパの中観思想が初期と後期で変わったのかどうか、ということはそれほど重要な問題ではなく、また解決の付く問題とも言えない。むしろ、それぞれの著作での特徴的な思想構造を問題として、その著作そのものをよりよく理解することができるようになれば、それで十分である。そして価値判断などを持ち込まずに、虚心にツォンカパの言葉に耳を傾け、それを再現できればと思うのである。

2013年5月18日土曜日

幻のごとき存在

 ツォンカパの中観関係のテキストでは、全時期に渡って、sgyu ma lta bu「幻のごとき〔存在〕」という表現、ないしはその亜種(sgyu ma bzhin du, sgyu ma dang 'dra ba, sgyu ma'i dpe, sgyu ma'i don etc.)がしばしば用いられる。

 中観関係のみならず、他の顕教のテキストや密教関係の著作にも出てくるが、この場合は、ツォンカパが究竟次第の階梯の中で重視する sgyu lus (幻身) との関連もあるのかもしれない。

 「幻」の部分は同じであるが、著作によって、その主語になるもの、および「の如し」の部分の種類に違いがある。たとえば『菩提道次第大論・小論』では lta bu「如し」が多いが、『善説心髄』ではそれはなく、それ以外の表現がいくつか用いられる。『入中論釈・密意解明』では、そもそも言及も限られる(が数例は見られる)。いずれにせよ、注釈を除く中観関係の大著は『菩提道次第大論』『善説心髄』『菩提道次第小論』であるので、それらにおける用例を細かく見ていく必要がある。が、ここでは、サチェー(見出し)にも取り上げられている『菩提道次第小論』の内容を示すことにしよう。

 とりあえず、今回は必要箇所の和訳(だいたい、当該科段の2/3程度)に当たる。以下、「諸法が幻の如くに立ち現れる」ことを説明する部分の前後の科段を示す。ページ数はショル版のものでおおよその分量が分かるであろう。科段の番号は、『西蔵仏教基本文献』第1巻、東洋文庫(1996)、p.32による。

S1: 人無我をどのように確定するか
 T1: 〔否定対象たる〕人を特定する (162a6)
 T2: 人に自性がないと確定する
  U1: 私は無自性であると確定する (163b2)
  U2: 私に属するものは無自性であると確定する (165b4)
  U3: 以上に依って人が幻の如くに立ち現れる仕方を示す
   V1: 〔経典に諸法が〕幻の如しと説かれた意味を示す
    W1: 幻の如き立ち現れの正しいあり方(166a4)
    W2: 幻の如くき立ち現れの似て非なるあり方  (168a2)
   V2: どのような方法によって〔諸法が〕幻の如くに立ち現れるようになるか (169b2)
S2: 法無我をどのように確定するか (170b2)

この科段でも、以下の和訳でも「人」という語が出てくるが、これは現代日本語の「人」の意味ではなく、仏教用語で、言わば「人格的な主体」と考えられているものであり、「私」という言葉を使うときに漠然と考えられている存在者、および、同様の衆生などの行為の主体となるような人格的存在者を指している。このような存在が「無我」すなわち無自性であるというのは、最初期からの仏教の根本的テーゼである。
 この部分の訳を作っていてしばらく時間がかかってしまった。ひとまず今回は和訳を挙げ、そこに説かれている内容についての議論は次回に回すことにしたい。現代語訳には他に

  1. ツルティム・ケサン、高田順仁訳『『菩提道次第論・中篇』 : 観の章 : 和訳』(ツォンカパ中観哲学の研究, 1)、文栄堂(1996), pp.49-63.
  2. ツルティム・ケサン、藤仲孝司訳『悟りへの階梯:チベット仏教の原典『菩提道次第論』』、星雲社(2005), pp.276-281.
  3. Jeffrey Hopkins, Tsong-kha-pa's final exposition of wisdom, Ithaca N.Y., Snow Lion Publications (2008). pp.75-85


がある。以下に訳出した箇所の多くは『菩提道次第大論』でもほぼ同じように述べられている。
 第一(V1W1)「幻の如き立ち現れの正しいあり方(sgyu ma bzhin du 'char tshul phyin ci ma log pa)」
 (中略)
『仏母経(般若経)』にも、色から一切智に至るまでの一切法は幻や夢の如しと説かれている。
 そのように説かれている「幻のごとし」の意味は二つある。すなわち、勝義諦が幻の如きものであるとおっしゃったように、唯有(yod tsam)として成立しているけれども、諦であることが否定されたものを指している場合と、空でありながら現れる幻の如き現れの二つ〔である。〕ここでは、そのうちの後者〔の意味〕である。
 この〔幻のごとき存在〕には、あるものとして現れることと、〔その現れたものが〕現れた通りの実体の存在に関して空であることの二つが必要なのであって、ウサギの角や不妊女性の子どものように現れることさえもなかったり、あるいは現れても現れた通りの実体(don)が存在することに関して空であることが意識されない場合でも(mi 'char na yang)、幻の如き現れの意味が意識されることはないのである。
 それゆえ、他の〔全ての〕法が幻の比喩と等しいことを理解させる方法(shes par byed tshul)は、次のようになる。幻術師が作り出した幻が、馬や象に関して元から空であるけれども馬や象として現れることは疑いようもなく映じてくるの(bsnyon mi nus par 'char ba)と同様に、人などの諸法もまた、対象の上では、それ自体で成立している自性に関して元から空であるけれども〔人〕として現れることは疑いようもなく理解されるのである。
 同様に、神や人間などとして現れるものは人であり、色声などとして現れるものが法であると措定するので、人と法には、自らの特質によって成立している自性は微塵もないけれども、業を積むものなど〔の人〕や、見られるもの・聞こえるものなど〔の法、すなわち〕縁起している因果関係にあるもの全てのもの(rten 'brel gyi bya byed thams cad)もまた妥当である。
 因果関係にある全てのものが妥当であるので、虚無的な空とはならない。また、諸法が元からずっとそのように〔それ自体で成立する自性に関して〕空であることを〔あるがままに〕空であると知るだけであるので、知によって作られた空でもない。所知一切がそのようなものであると主張するので、部分的な空でもない。それゆえ、その〔空〕を修習することによって、真実把握の執着全ての対治ともなるのである。
 この深甚なる意味は、いかなる知の対象にもならないわけではなく、正しい見解によって〔本来的な空を〕確定し、その正しい意味を修習する修習〔の知〕によって対象とすることができるので、修行の過程において実践することができないとか、覚られるべきもの(rig rgyu)、理解されるべきものが何もないような空でもない。
 (中略) 
 第二(V2: thabs gang la brten nas sgyu ma lta bur 'char tshul)、それでは、どのようにしたら、幻の意味が不顛倒に理解されるようになるのか、と思うならば、〔答えよう〕。たとえば、幻の馬や象が眼識に見えることと、現れている通りの馬や象は存在しないと意識によって確信すること、〔この二つの知〕に依拠して、馬や象として現れているものが、幻である、あるいは虚偽なる現れであるという確信が生じるが、それと同様に、人などが言説知に疑いようもなく現れる〔が、それと同時に〕、その同じ〔人〕が、それ自体で成立する自性に関して空であると正理知で確信する、〔その〕二つ〔の知〕に依拠して、人は幻であり、あるいは虚偽なる現れであるという確信が生じるのである。
 それ故に、三昧に入ったとき、特質を把握する〔知〕の認識対象は微塵も存在しないという虚空の如き空性を修習できるようになったならば、その〔三昧〕から出て対象の現れが立ち上る(yul snang 'char ba)のを見たとき、後得〔智〕において幻の如き空が立ち現れる('char)のである。
 それと同様に、諸法にそれ自体で成立している〔自性〕があるかないかを考察する正理によって繰り返し考察したのち、〔そのような〕自性は存在しないという強固な確信を生じたあと、現れが立ち上ってるのを見たならば、〔その現れは〕幻の如きものとして立ち現れているのであって、幻の如き空を、〔それとは〕別に確定する方法はないのである。
 (中略)
 その確信を求める仕方を分かりやすく述べるならば、前に説明したように、正理の否定対象一般を正しく〔意識に〕立ち現れさせ、自心の無明によって増益された自性〔がどのようなものであるか〕を正確に特定できなければならない。それから、そのような自性が存在するならば、同一であるか別異であるかのいずれかでなければならず、そのいずれを認めても、それに対する反対論証が生じることについてしっかりと考えて、反対論証が見られるという確信を引き出さなければならない。最後に、人に自性によって成立しているものは少しもないという確信を堅固なものとしなければならない。空の側面については、以上のように繰り返し学ぶべきである。
 それから、疑いようもなく現われるている人〔について〕の諸々の言説を意識の対象にもたらし、その〔人〕が「業を積むもの」あるいは「〔その〕果報を感受するもの」であると措定されるという縁起の側面を意識を向けなければならない。そして、自性のないものにおいて縁起が妥当することについての確信を得なければならない。
 その〔空の側面と縁起の側面の〕二者が矛盾すると思われるとき、鏡像などを喩例として〔それらが〕矛盾しないことについて考えなければならない。すなわち、顔の鏡像が、目や耳などとして現れている〔その実際の目や耳など〕は存在していないけれども、顔や鏡に依拠して〔その鏡像が〕生じることと、それらの縁の1つでも欠けたとき〔鏡像も〕消滅してしまうという二つのことが、疑問の余地なく両立している(gzhi mthun du 'du ba)。それと同様に、人についても、自性によって成立しているものは塵ほども存在しないけれども、〔そのことと、〕業を積むもの、果報を感受するもの、前世の業・煩悩になどよって転生することとは矛盾していないと学ぶべきである。以上のことは、その〔業を積む人など〕と同様の全ての主題について理解すべきことである。

 
 

2013年5月6日月曜日

事物に二つの種類がある

 勝義においては存在せず、世俗においては存在するという二面性は、自性によって存在するものは否定するが、言説において存在するものは否定しない、と言い換えることもできるが、このことをツォンカパは、また別の表現で説明している。

 すなわち、「事物」(この場合、一切法ではなく、生じ滅する有為法のみを考える。)には、

  1. 自性によって成立している事物、それ自体で存在している事物
  2. 何らかの効果を生み出す能力のあるものとしての事物
という二つの意味・用法があり、否定されるの1の、それ自体で存在している事物であり、2の、効果を生み出す能力のある事物は否定されない。

 前者が勝義においては存在しないと言われる事物であり、後者は世俗のおいて存在しているとされる事物である。これを事物という言葉の二義に関連させて説明しているのである。

 効果を生み出すことができるということは、「縁起している」ということである。自性によって成立している事物がない、ということは「無自性」、あるいは「自性に関して空である」ということである。これらが矛盾することなく、それどころか、相補う両面として同時に設立している、というのが、中観派の不共の勝法の内容である。

 こうして、ツォンカパの文章は様々な概念や表現、説き方をしながら、緊密に一つの存在論的原理へと繋がっていくのである。

二諦のいずれにおいても自性は否定される

 もう少し、「勝義において」「世俗において」という限定辞の意味を説明しておきたい。

 この二つの限定辞は、諸法が勝義においては存在せず、世俗においては存在する、というように肯定・否定で相補的に用いられることは事実であるが、一方で、勝義において否定されるものは、世俗においても存在しないとも言われる。これは矛盾していないだろうか。

 世俗の存在は、自性の無、すなわち勝義における存在の否定を認識する正理知によっては否定されることはない。もう一方で、その正理知によって否定される自性は、世俗の知である言説の量によって認識されない。確かに世俗の知に対して対象は自性によって成立しているように現れる。しかし、その自性は世俗の知によって、その存在を確定されず、正理知によっては、その存在は否定される。そのとき、対象は勝義においては存在しないことが確定される。

 しかし、それだけではなく、そのように勝義において存在しないものは、世俗においても存在することは否定される。しかし、世俗の知によってはそのことは確認されるわけではない。どうして勝義において否定されたものが、世俗においても存在しないことになるのであろうか。

 このことは、「勝義において」と「世俗において」が相補的な関係にあって、対称的な関係にないことに基因しているのだろう。勝義において存在せず、世俗において存在する、とされるものは、一切のダルマ、すなわち全ての存在である。一方、勝義において否定されるのは、自性によって存在するものであり、これはいかなる意味においても存在しない、端的な、無限定的な非存在である。それらは存在するとすれば、勝義において存在するものとなり、それはいかなる意味においても否定されない存在となる。それが否定対象である。そして、そのような自性によって存在するものの否定は、自性の有無を考察する正理知によってもたらされる。それは「勝義において」否定されるわけではない。正理知は自性の有無を考察し、そしてそれによって得られないが故に自性の存在が否定されるのであって、勝義においては自性は存在しないと否定するわけではない。

 このことはまた同時に、「自性によって」という限定辞と「勝義において」という限定辞が等価(同じ意味であるわけではない)のものであるという帰謬派の(すなわちツォンカパの)主張と同じことを意味している。それに対するに自立派は、これら二つの限定辞の意味が違うが故に、「自性によって」を否定するときに、「勝義において」という限定を付す必要があると主張することになる。

 こうして、「勝義において」存在せず「世俗において」は存在する、という表現と、勝義において否定されたものは世俗においても存在しない、という表現とが矛盾しないことが確認される。

 

2013年5月5日日曜日

「勝義において」という限定辞

 ツォンカパの思想を理解する際に、二諦の問題は様々な問題をはらんでいる。新たな解釈を提起しているようで、また同時に必ずしも記述が整理されているとは言えない。

 厳密に言えば、二諦とは「勝義諦」と「世俗諦」の二つを指す。しかし、ツォンカパの中観思想の初期から中期にかけては、二諦に対する直接的言及よりも「勝義において」「世俗・言説において」という限定的な表現の方が多く見られる。これらは厳密には二「諦」ではないが、勝義と世俗という二諦を構成するファクターについてのツォンカパの理解を探る上で欠かすことはできない。それどころか、初期のツォンカパは二諦の問題を後者のような表現を通して理解していたと言った方がいいだろう。私が以前「ツォンカパの二つの二諦説」という論文を書いたのも、そのことに気付いたからである。

 ツォンカパの中観派の不共の勝法の主張は、一切法、すなわちすべての存在は「勝義においては」存在せず、「言説においては」存在している、という肯定と否定の述語が同時に成り立つことにある。これは、それぞれ勝義無と言説有に対応する。「勝義において」と「言説において」は、存在と非存在の様態についての限定辞であり、常に同時に矛盾することなく成り立っている。これが、少なくとも、初期のツォンカパにとっての二諦説であった。

 言説において存在するということは、我々が日常的に考えたり話したりしている対象として存在しているということである。言い換えれば、それらの対象は、我々が普段、それについて何かを言い、また何かを考えている対象であるということである。したがって、「言説において」という限定が付されてはいるが、これは「存在すること」に対する様態の限定要素ではなく、存在すると「言える、考える」ことが可能である、という意味である。こうして、「言説において存在すること」は、存在・非存在の四つの様態のうちの「単なる存在」、すなわち限定なしに「存在する」ことに相当する。

 勝義と世俗をこのように考えることによって、それらは「中観派の不共の勝法」の主張に吸収され、また、その存在論によって、勝義と世俗の関係も、そして二諦の意味も再解釈されることになる。

 『菩提道次第大論』には、否定対象を否定するときに「勝義において」という限定を付すべきか否かについての議論がある。これはもともと、自立派たるバーヴィヴェーカがブッダパーリタを批判して自説を主張するために提起した問題である。しかし、ツォンカパはそのバーヴィヴェーカの批判を退けている。バーヴィヴェーカは、「それ自体で存在するもの」を否定するために「勝義において」という限定辞を必要とする、と主張する。そのことは逆に、「勝義において」は、「それ自体で存在するもの」は存在しないのだが、逆に勝義においてでなければ、すなわち世俗においては「それ自体で存在するもの」を認めていることになるとツォンカパは言うのである。

 自立派は、言説においては、自らの特質によって成立しているもの rang gi mtshan nyid kyis grub pa'i rang bzhin が存在し、それを「勝義において」否定することが無自性 ngo bo nyid med pa の意味であると考えているとしてツォンカパは自立派を批判するのである。このような存在論が当のバーヴィヴェーカの考えていたものかどうかは分からない(それを追求するのは別の仕事である。)しかし、ツォンカパは、もしかしたら何気なく(あるいは不用意に)述べられたバーヴィヴェーカの言葉から論理的に導かれる不都合な帰結を導き出そうとしているのである。

 諸法は勝義においては存在せず、言説においては(言説の対象としては)存在するという二面性は、それら諸法が幻の如き存在であるという別の主張の内実である。二諦説の言及は、前期と後期で大きく変わるが、しかし、諸法を幻にたとえる理解は全期間を通じて一貫している。そのことについては、また次の機会に触れることにする。

2013年5月4日土曜日

再び rang bzhin gyis med の解釈

 前々回の記事で、rang bzhin gyis med pa の med pa は、stong pa と同じ意味であり、「具格+ med pa」で「〜を欠いている」ないしは、「〜がない」という意味だろう、というようなことを書いた。これはかなり強引な解釈であったかも知れない。と思い直して、もう少し解釈を緩めた方がいいような気がしてきた。(ここは結論を述べるブログではなく、日々の経過を記録する場なので、このようなブレは許していただきたい。)

 rang bzhin gyis med pa に類似した表現として、rang bzhin gyis yod pa を挙げるの実は不適切であった。むしろ、同じ否定的な表現である

  • rang bzhin gyis ma skyes pa
  • rang bzhin gyis ma grub pa

を挙げるべきだろう。これらはいずれも、

  • rang bzhin gyis skyes pa
  • rang bzhin gyis grub pa
という顛倒したあり方を(それゆえ否定対象を)否定したものである。すなわち

  • 自性によって生じたものではない
  • 自性によって成立したものではない
の意味になる。これらも「自性によって、不生なものである」あるいは「自性によって、不成立なものである」というように、ma skyes pa や ma grub pa に対する様態的限定として rang bzhin gyis と言われているわけではない。これと類比的に考えるならば、rang bzhin gyis med pa も

  • 自性によって存在しているものではない
と解釈できることになるし、それでも文脈上不整合は起こらないだろう。チベット語原文はともなく、「自性によって存在するものではない」という述語は、全てのダルマに対して正しく成立するからである。そして、それは実のところ、それは「全てのダルマには自性が無い、すなわち無自性・空である」というのと同じことである。
 整理するならば、

  • rang bzhin med pa「無自性」
  • rang bzhin gyis stong pa「自性に関して空」
  • rang bzhin gyis med pa「自性がない」あるいは「自性によって存在するのではない」
  • rang bzhin gyis yod pa ma yin pa「自性によって存在するものではない」
  • rang gi mtshan nyid kyis grub pa'i rang bzhin med pa「それ自身の特質によって成立している自性がない」

はほぼ同じ内容を表していると考えられる。この場合、rang bzhin gyis medをrang bzhin gyis stong paと同じ意味と考えるにせよ、rang bzhin gyis yod pa ma yin paと同じ意味と考えるにせよ、考えられているあり方は同じであることになる。
 これは日本語で訳すときに問題が生じるのであって、チベット語で考えている分には、そのいずれの意味であるかを決着することなく使用できる可能性を示している。従って、前々回の記事でmed paをstong paと同じ意味であると言い切ったのは、強引すぎる解釈であったと反省している。要するに、チベット語で考える限り、両方の意味を含意していると言う方が適切であるだろうと、今は考えている。

2013年5月3日金曜日

言説有と勝義無

 ツォンカパの中観思想の根本的な理解には、何が存在しているのか、何が存在していないのか、そしてどのように存在し、どのように存在しないのか、という存在論的な概念の区別を理解することが必要である。大まかなことは分かるが、細かいこととなると、区別がつきづらく、そしてツォンカパはまさにその微妙で細かい区別を理解するよう求めているのである。初期のツォンカパの中観関係文献はまさにそのことを繰り返しいろいろな説や話題を通じて検証していくことによって成り立っている。

 初期のツォンカパは「中観派の不共の勝法」という言い方で、その存在論を総称している。そのいくつかの表現形式の中に、存在と非存在についての四つの様態を区別するという考え方がある。

 表面的な文言は簡単であり、少しでも仏教学や中観思想を学んだ人には馴染みのもののはずである。すなわち、

  1. 単に存在することと、自性によって存在すること
  2. 端的に存在しないことと、そのものの自性がないこと
を区別すべし、というものである。とりわけ、自性によって存在することは、「実体的に存在すること」と訳され、またそのものの自性がないこと(これについては、昨日書いた。)は「無自性」あるいは「自性空」「勝義無」などと同義である。

 端的に存在しない、というのは、原文では単にmed paとしか言われていない。だがこれは存在しないことに限定が付けられていないことを意味する。同様に単に存在しないことも限定されないyod paである(yod pa tsam「唯有」という言い方はあるが。)。それに対して自性によって存在することも、自性がないことも、yod paとmed paに対してrang bzhin gyisという限定が加わっているのである。

 もちろん、単に存在していることは否定されず、自性によって存在することは否定され、端的に存在しないことは否定され、そのものの自性がないことは肯定される。端的に存在しないとは、限定なしに存在しないことなので、いわゆる虚無論、無辺に堕していることを意味する。当然それは批判対象である。自性によって存在すると主張し、あるいはそのように思いなすことも、有辺に堕し、あるいは無明によって増益されることなので、これも否定される。

 一方、そのような限定なしに存在するとは、縁起することであり、またそれが言説有である。自性がないことは、空性の意味であり、またそれが勝義諦である。

 ここまでは、理解し易いであろう。しかし、それではそのような「存在する」「存在しない」と言われる主語になるものは何かと考えると、ややこしいことになってくる。それぞれの述語で、主語になるものが異なってくる。一番単純なのは、「単に存在する」ものである。これは「諸法」すなわち、量によって存在が確認されるもの全てが当てはまる。「自性が無い」という場合も、これと同じ外延であると言っていいであろう。それらは「自性は無いが存在はしている」と一つにまとめることができる。これは、「無自性でありながら縁起している」あるいは「自性の無いものが幻の如くに現れている」と言い換えることもできる。

 それでは、「自性によって存在している」ものは何であろうか。中観派の立場に立てば、そのようなものは存在しないので、(すなわち全てのものは自性を欠いているので)該当する存在、すなわちダルマは存在しない。ここには、中観派によって否定される、いわゆる否定対象(dgag bya)が妥当する。より正確には、否定対象は、自性によって成立しているもの、であり、あるいは何らかの対象が自性によって成立している「こと」が否定されるのである。チベット語では「もの」と「こと」の区別は特になされないので、それぞれに振り分けるのは、現代語の、あるいは日本語の制約による。

 さて、端的に存在しないものはどうであろうか。これについては、二種類が区別される。言説の量によっても存在が否定されるもの、たとえばウサギの角のようなもの、あるいは、蜃気楼のようなものである。後者は知覚には見えているが、それが実在しないことは言説の量、すなわちわれわれの通常の正しい認識によって確認される。

 一方、アートマンや我、あるいは自性によって成立しているもの、無始時来の無明の力によって、壺がそれ自体で存在していると思われている、そのような壺などである。これらは限定されることなく、存在しない。限定されないというのは、この場合、勝義においても、言説においても、という意味である。すなわち「勝義において」あるいは「言説において」というのが存在・非存在に対する限定であり、限定なしということは、このいずれの場合にも、存在する、ないしは存在しないということである。

 自性によって存在するものと組み合わせるならば、「自性によって存在するものは、勝義においても言説においても存在しない、すなわち端的に存在しない」ということになる。チベット語で言えば、rang bzhin gyis grub pa med paである。より正確には、rang gi mtshan nyid kyis grub pa'i rang bzhin med paである。これは、自性の有無を伺察する正理によって得られない(認識されない、その存在が確立されない)が故に、存在しないとされ、そのようなものは、勝義においてだけではなく、言説においても存在しないとされる。

 これが「勝義無」の意味である。勝義において存在しないが、世俗においては存在する、という意味ではない。勝義において存在しないものは、世俗においても存在しない。勝義において自性を欠いたものは、世俗においても自性を欠いている。

 それでは、われわれは世俗において自性を欠いたものを認識しているのであろうか。そうではない。無明によって汚されたわれわれの意識には、世俗のものは、自性によって、あるいはそれ自体で存在しているように見えているのである。

 それでは、われわれの世俗の認識は全て否定されることになるのであろうか。なぜならば、自性によって成立しているものは、世俗においても否定されるべきものだからである。

 しかし、それでは、ツォンカパの主張する中観派の不共の勝法が成り立たない。これは縁起しているものが同時に無自性でもあり、その二つは矛盾することなく一つのものにおいて不可欠のものとして、常に同時になりたっている、と主張するものだからである。

 この隘路をツォンカパは次のように解決する。世俗の存在、すなわち言説有を確定するのは、無明による迷乱知ではなく、言説の量である。これは論理的な仕組みで認識が成立するのであり、自性の有無には関わらない。すなわちその存在は、自性があるかどうかによっては左右されない。なぜならば、その量の対象は事象ではないからである。すなわち自性の有無を棚上げにして、個々の存在(すなわちダルマ・法)を認識している。

 これに自性があるか否かを考察し、そしてその結果自性がないと理解するのは、別の知、すなわち正理知であり、これによってその対象が幻の如き、無自性な存在であることを知ることになる。

 われわれの言説の知には、対象は自性によって成立しているかのように現れている。この現れそのものは否定することはできない。そこに存在しない自性が現れているので、自性に関する限りそれは迷乱、すなわち錯誤している。しかし、言説の量によって確定されるものは自性ではないので、言説の量によって対象の存在が確定されることに自性は関与しない。関与しないでも言説の世界における正しい認識は可能であり、因果関係の連関は正しく機能する。すなわち、縁起が成り立つのである。

 存在論的には、自性が無い、すなわち空であるが故に縁起が成り立つのであるが、縁起の世界の認識においては、自性は対象外なので、自性が見えていても、別の認識機序によって対象の存在は確定されるのである。

 その別の認識機序、すなわち言説有を設定できる言説の量の条件についても、ツォンカパはとりあえず『菩提道次第大論』で三つの条件を挙げている。

  1. 言説の知に共通認識として成立している(tha snyad pa'i shes pa la grags pa)
  2. 共通認識として成立している内容が他の言説の量によって否定されない (ji ltar grags pa'i don de la tha snyad pa'i tshad ma gzhan gyis gnod pa med pa)
  3. 自性の有無をありのままに考察する正理によって否定されないようなもの (de kho na'am rang bzhin yod med tshul bzhin du dpyod pa'i rigs pas gnod pa mi 'bab pa zhig)
ただ、これは三つに確定することではなく、表現の仕方や重点の置き方によって数え上げられ方は様々になるであろう。要するに正理知と言説の量が対象を異に、そして言説の世界で有効に機能することが言説の量によって確定されるならば、自性によって成立するものとして現れていても、言説有だと言えるが、当の自性は現れているにも関わらず、言説の量によっては確定されず、正理知によって否定され、したがって、言説の量もその点では迷乱知であるということになるのである。

 毎日書くはずがもう一週間近く更新ができなかった。今回の記事は少し長くなりすぎた。研究の毎日の記録のつもりが、必ずしも記録ではなく、論述になってしまった。とは言え、これも思いつくままに書き足し、さらに典拠を全く示していないので、論文にもならない。これをもう一度整理し、典拠を挙げていき、結論をはっきりと明示することで言説有と勝義無についての、中観派の不共の勝法の一側面を記述したいと思う。