2013年4月26日金曜日

菩提道次第大論の自立派と帰謬派の区別の章

 東大のチベット語の講読で、『菩提道次第大論』の自立派と帰謬派の区別を論じる箇所を、割註入りのテキストで読むことにした。今日が初日なので、読み始められるのかどうかは分からない。

 要するにツォンカパの自立論証批判をどう理解するかという問題ではあるが、そのこと自体はそれほど難しいことではない。特に初期のツォンカパの存在論、中観派の不共の勝法の考え方に立てば、自立論証自体が成り立たないことは、演繹できてしまう。特に新たな視点は必要としない。

 そのこと自体が従来の研究で、多少言及されるにせよ、それほど重視はされてこなかったように思われる。それは何よりも「自立論証派」と「帰謬論証派」という名称、およびその分裂の端緒になった議論が、空の論証法の相違にあり、それをツォンカパがどのように解釈しているかに関心が集中しているからに違いない。

 実際、『菩提道次第大論』での議論は、長く錯綜している。ツォンカパ自身の結論ははっきりしているのに、チャンドラキールティの『プラサンナパダー』(それ自体、議論のある難解なテキストである)の解釈も、原意から外れているようで、その強引な解釈を正確に読み取ることは難しい。

 というわけで、非常に丁寧な(時には丁寧すぎる)語釈入りのテキストを読解してみることにした。これは、思想的な研究と言うよりも、古典のテキストの文言の解釈の問題である。

 割注は、
  1. ba so chos kyi rgyal mtshan (1402-1473)
  2. sde drug mkhan chen kha rog ngag dbang rab brtan (17c)
  3. 'jam dbyangs bzhad pa ngag dbang brtson 'grus (1648-1712)
  4. bra sti dge bshes rin chen don grub (17c)
の四つの注釈を合体したものであり、実際にはどこが誰の手になるものかは明確ではない。ジャムヤンシェーパのものについては「ja」と書かれているので分かる。しかし、その他のものについては、実は名前の挙げられた人のものかどうかも定かではないようである。

 文献学的にはより正確に調査する必要はあるのだろうが、ツォンカパのテキストを読むための資料としてならば、個々の著者の貢献がどれであるのかはそれほど重要ではない。時には不要な注や、間違っているのではないかと思われる注記もある。なによりも、注釈者の思想ではなく、ツォンカパのテキストを理解することを主眼とするので、細かいこと、たとえば時には文意が曖昧な場合など、深追いはせずに先に読み進めることとしたい。

 実際、これらの注釈に目を通した後でツォンカパのテキストを直接に読むと、それが非常にすっきりと、そして必要にして十分な情報を与えてくれていることが分かる。それを理解するための準備運動と言ってもいいくらいである。

 まだ初回の部分では本質的な議論には入らない。文章そのものはそれほど難しくないので、一回に2フォーリオか3フォーリオ進みたいものである。

 夏休みには自立論証についてのツォンカパの解釈について論文を書きたいので、それまでには一通り読み終わりたいと思う。

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