2014年12月28日日曜日

言説有の設定(普通の人の捉え方)

 自立派を含む実在論者は「自性(自-相)によって成立しているもの」を承認するが、帰謬派はそれを言説においても認めない、という点に実在論者と帰謬派との違いがあるわけだが、『善説心髄』の説明は少し異なっている。

もちろん、前回見たように、自立派と帰謬派の相違は、言説において自-相によって成立する存在を認めるか認めないかという点にあることには違いはなく、その点は初期から後期に至るまで変わらない。それに対して『善説心髄』の特徴は、「どのように把握するときに、自-相によって成立していると設定されるのか」を問うたことにある。それに対する答えが、命名の基体=根拠を探し求め、それが得られたときに、その対象の存在を措定できる、そのことが「自-相によって成立している」ことの意味であるという診断基準である。帰謬派の立場では、そのような命名の基体=根拠は得られず、したがって、それら対象は「自-相によって成立するもの」ではない。それ故、それらの存在は、ただ名付けられただけの存在であることになる。「名前だけのもの(ming tsam)」あるいは「施設(仮設)されただけもの(btags pa tsam)」と言われるのも、それを指している。

「自-相によって成立しているもの」を勝義においては認めないが言説において認めるのが自立派であり、それを二諦のいずれにおいても認めないのが帰謬派である、という違いが、命名の基体を求めて得られると主張するのが自立派(その他の実在論も同様)、そのような命名の基体を求めても得られないと主張するのが帰謬派という違いへと還元されることになる。

この区別に対してさらにもう一つ別の対比が付け加わる。自立派に対する帰謬派の批判は、哲学的な水準のものである。すなわち、命名の基体が何であるかを探し求め、それが見付かるか見付からないかを問題にするのは、もともと哲学説上の議論であり、哲学に毒されていない普通の人は、そのような問いを立てることはない。自立派に対する帰謬派のもう一つの批判は、この点を指摘することによる。すなわち、言説においての存在は、言葉の意味対象の実体を問うことなく、言説において言葉を使用することによって成り立っている。すなわち、命名の基体、あるいは言葉の意味対象の実体を探し求める問いを問うこと自体が実在論者の思考方法なのであって、普通の人はそのような問いを問うことなく言語活動を円滑に遂行しているのである。これが「考察することなく〔言説において存在を〕設定すること(ma dpyad par 'jog pa)」と言われる。

一般の人の「考察しない」把握の仕方について、ケードゥプジェが『千の要点(stong thun chen mo)』において分かりやすい例を挙げて説明している。

 dper na lhas byin dang 'phrad par 'dod pa zhig gis khang pa gang na bya rog sgra sgrogs pa 'di na lhas byin yod do zhes pa'i ming tsam gyi rjes su 'brangs nas khang pa de'i nang du zhugs na lhas byin dang phrad par nus kyi / 'di'i nang na yod pa'i lhas byin zhes bya ba'i ming de gang la 'jug pa'i gzhi kho rang gi phung po rnams dang rdzas gcig tha dad ji lta bu zhig yod ces sogs su brtags pa na 'di 'dra zhig tu yod ces rnyed nas de dang 'phad dgos na lha byin dang 'phrad pa mi srid par 'gyur te / de ltar btsal na gang du'ang mi rned pa'i phyir ro //(TTCM, zhol, 86b2-4)
 たとえば、デーヴァダッタに会いたいと思う人が、カラスの鳴き声のする家にデーヴァダッタがいるという言葉だけに従ってその家の中に入〔れば〕デーヴァダッタに会うことができけれども、この中にいるデーヴァダッタというその名前の指し示している対象(gang la 'jug pa'i gzhi)は、彼の〔五〕蘊と同一の実在であるのか別の実在であるのか、どのようなものであるのかなどと分析して、このようなものであると見つけて(=認識して)から、その人と会わなければならないとしたら、デーヴァダッタと会うことはできないであろう。なぜならば、そのように探し求めたならば、どこにも〔デーヴァダッタを〕見出すことはできないからである。

このケードゥプジェの説明では、実在論者が目的の人の名前の意味対象の実体を詮索しているのに対し、単に言葉だけに従って行動した人は目的の人に会えるという対比と、探しても名前の意味対象の実体は見出せないということとが両方説かれているが、言葉だけに従った人は、そもそも意味対象の実体を詮索していないので、見出せないというのは、「もし詮索しなければならないとするならば」という仮定の上での仮想的な帰結にすぎない。要するに、普通の人はそのような詮索はしない。ということを強調しているだけである。言い換えれば、そのような詮索は非現実的であるということである。

このことは、またその普通の人が、対象の空性を理解しているわけではないということとも符合している。普通の人も、その対象が「名前だけのもの」「名付けられただけもの」と捉えているわけではない。彼も、デーヴァダッタは対象それ自身においてデーヴァダッタであると考えている。

 de ni phyi nang gi chos rnams tha snyad kyi dbang gis bzhag pa tsam min par rang gi ngo bo'i sgo nas yod par 'dzin pa ste / de yang mchod sbyin la sogs pa'i gang zag la de ltar 'dzin na gang zag gi bdag 'dzin dang mig rna la sogs pa'i chos la de ltar 'dzin na chos kyi bdag 'dzin yin la das bdag gnyis kyang shes par bya'o //(LN, zhol, 68b2-b3)
 それ(=倶生の真実把握 lhan skyes kyi bden 'dzin の捉え方)は、内外の諸法が言説の力よって設定されただけのものではなく、それ自体の方から(rang gi ngo bo'i sgo nas)存在していると捉えることである。それについても、ヤジュニャダッタ(mchod sbyin)などの人(gang zag)をそのように捉えるならば、それは人我執であり、目や耳などの法をそのように捉えるならば、法我執である。これによって〔一般に〕二我についても知るべきである。

この二つの我執は、倶生のものであり、衆生に普遍的に存在しており、それこそが衆生を輪廻に縛りつけているものとである。ただ、実際に中観の論書の中ではそれらが主題的に取り上げられることは少ない。ツォンカパ自身も指摘はするものの、その具体的な分析は少なく、同じような表現が繰り返し用いられるだけである。ここにも見られるように、実際には言説のみのもの、名前だけのもの、名付けられただけのものであるのに、そのように「言説の力よって設定されたものではなく、それ自身の方で成立しているもの」と言及されることが多い。この表現自身は、もちろん、それほど難しいものではなく、全ての存在を言説によって設定された、名付けられただけのものと理解できずに、それ自体でそのように存在していると信憑している。一般の衆生の認識のこの二重構造(名前だけに従って行動し、その実体が何であるかの分析をしないことと、しかし名付けられただけのものであるとは思わずに、それ自体でそれとして存在していると思いなしていること)は、後期の二諦説の中でも、世俗諦と唯世俗の対比の中に組み込まれていく。


 ツォンカパの議論は、自-相によって成立するものを設定するために、言葉の意味対象の実体を特定しなければならないという実在論者の立場に対して、普通の人が言葉だけに従って有効な日常行為を遂行していることを対比させることによって、意味実体に対する考察を行うこと自体を無効な哲学的謬見と規定すると同時に、そのように考察したときに意味実体が存在しないことが「自-相によって成立しているもの」を欠いた空性として設定される、という非常にデリケートな論理の上に成り立っているのである。

2014年12月26日金曜日

帰謬派と自立派の根本的相違

 前回の記事では、ツォンカパが『善説心髄』において、帰謬派にとっての批判対象である「自性(自-相)によって成立するもの」を言語論的な格率によって規定する主張を取り上げた。その議論に入る直前に、なぜその議論が重要であるのかを次のように指摘している。科段としては前の節に属するが、内容としては「自性によって成立するもの」が何を指すかについての議論を導き出す役割を担っている。

 また、『入中論』釈に、
勝義として生じることがないので、それ自身から〔生じること〕も、他のものから生じることも否定されたとしても、現量および比量の認識対象となっている色や受などの自性は、他のものから生じるものでなければならない。もしそれを認めないらならば、諦が二つ〔ある〕とどうして言うことができようか、〔すなわち〕諦は一つしかないことになってしまうであろう。それゆえ、他のものからの生起はなければならないのである。(MABh, p.119, ll.10-15)
と説かれている。すなわち、以前、自相によって成立している原因と結果とを否定した際に、勝義としてそれらを否定することで他のものからの生起が退けられるのは正しいけれども、言説として自性あるいは自-相による生起である他のものからの生起は認めなければならない。もしそれを認めないならば、世俗としても諦は存在しないこと〔になってしまう〕ので、世俗諦は存在しないことになってしまうであろう。〔以上のように〕非難するものに対して、〔『入中論』の二つの偈(VI, 35-36)で〕順番に、自-相によって〔成立している〕生起は、二諦のいずれにおいても存在しないと論証しているが、それは、勝義としての生起はなくても、言説として自-相によって〔成立している〕生起があると主張する〔中観派〕に対して〔二諦のいずれにおいても自-相による生起はないと〕論証しているのであって、実在論者に対して〔行った論証〕ではない。それ故、中観二派に、否定対象のそれだけの違いがあるならば、チャンドラキールティは、なぜそれを特別に取り上げた否定をなさらなかったのか、と言うのは正しくない。(LN, pp.141-142)

帰謬派が、勝義としても世俗としても自性あるいは自-相による生起は存在しない、と主張するのに対し、自立派は、勝義としての生起は否定するが世俗としては自性による生起があると主張する。この世俗としての自性による生起を認めるか認めないかという点にこそ、自立派と帰謬派の相違があり、また帰謬派から自立派に対する批判もその点を問題としているのだとツォンカパは考えている。最後に登場する批判者は、もしそうであるならば、なぜチャンドラキールティがそのことを主題的に論じていないのか、と批判しているのであるが、ツォンカパによれば、二諦のいずれにおいても自性による生起が成り立たないという論証自体が、実在論者に対するものではなく、帰謬派の自立派に対する論証にほかならないので、そのような批判は当たらないと答えているのである。

 ここで、「世俗としても」自性による存在がない、ということよりも、「二諦のいずれにおいても」自性による存在を認めないということの方が重要視されていると考えることができるであろう。そのことは、二諦を別々のものとして切り離して設定する他の学派に対する帰謬派独自の立場が背景にあるとも言える。自性によって成立するものが存在しないということは、言い換えれば、絶対的な空性のことであり、それはまた縁起していることと表裏の関係にある。これもまた根本的には「中観派の不共の勝法」に帰着する考え方であると言うことができる。単に自立派に対する帰謬派の優位性を示しているわけではない。

 このような指摘を踏まえて、次に「それでは、その自-相似よって成立ものとは何を指しているのか」という問いが立てられることになる。それに続く議論が前回の記事で紹介した議論である。

2014年12月24日水曜日

ツォンカパ中期中観思想の言語論的転回

 以前、『印度学佛教学研究』に短い論文を書いた。考え方が特に変わったわけではないが、同時に特に多くの人に理解されているわけでもなさそうなので、もう少し丁寧に議論を展開したいと思い、新たな論文を企画した。しかし、調べ始めてみると、もう少し全体を見通した記述が必要なことが分かり、しかし、それを説明していると逆にポイントが分かりづらくなってしまうというジレンマに陥っている。

 ツォンカパの中観思想は、『ラムリム・チェンモ』を中心とした初期と、『善説心髄』および中論注『正理大海』を著した1407年を中心とする中期と『ラムリム・チュンワ』と『密意解明』を中心とした後期(あるいは晩年の時期)に分けることができる。

 何がツォンカパの中観思想の中心的主張であるかという問いに答えることは難しい。「言説においても自性によって成立しているものを認めないこと」が挙げられることは多い。ツォンカパ自身もこのテーゼを、帰謬派の立場を他と異ならしめる重要な論点と捉えていた。しかし、これはむしろ、より根本的な原理から派生する主張の代表的なものの一つと考えるべきであるように思う。特に『善説心髄』では、どのように捉えることが「自性によって成立するもの」であると捉えることになるかが問われる。これに対するツォンカパの答えは、言語的な活動に着目したものと言える。

 『善説心髄』において、中観派の立場を述べるときに、中観派一般の立場として、前期から続いている「中観派の不共の勝法」を簡単にまとめた後、自立派と帰謬派に分けて、それぞれの立場を論じている。自立派の立場についてまとまった論述になっている点で注目すべき箇所ではなあるが、それはまた別の機会に検討するとして(かつて書いた論文もあるが、再検討は要する)、それまでの唯識派、中観自立派を踏まえ、それらと異なる帰謬派の立場を述べる箇所で、次のように議論を運んでいる。

 すなわち、自立派の人たちは、帰謬派と自分たちの間に論証法以外の点で違いはないと考えていた。とりわけ二諦の考え方については帰謬派を批判することなく、意見の相違はないと考えていた。ところがチャンドラキールティは、自性によつて成立するものを二諦のいずれにおいても認めないということが、それ以外の立場、特に自立派との決定的な相違であと主張した。

 これは逆に言えば、他の立場において(とりわけ中観自立派において)承認される「自性によって成立するもの」が帰謬派にとって、根本的な否定対象となるということを意味している。これこそが帰謬派を自立派から区別するメルクマールということになる。そこでツォンカパは、一体他の立場が承認している(そして、それを帰謬派が否定する必要のある)「自性によって成立するもの」とは何かを問題とする。

 それならば、どのように捉えるならば、自相によって成立していると捉えている〔ことになる〕のかと問うならば、この点についてまず、学説論者(grub mtha' smra ba)の説を述べよう。
 「この人がこの業を行った(=積んだ)。この果報を受けた」という言説が用いられたとき、〔その人〕の五蘊が〔その〕人であるのか、それともそれら〔五蘊〕とは別のものが〔その人であるのか〕と、「人」という言説が用いられた、その〔人の〕実物(don)を探し求めて、同一物であるか別物であるか(don gcig pa'am don tha dad)など、何らかの結論(phyogs)が得られたのち、その人を措定する対象('jog sa)ができたならば、業を積んだ人などを措定することができるが、〔探しても実物が見つからず、いかなる結論も〕得られないならば〔業を積んだ人を〕措定することはできない〔と実在論者は考える〕。それ故、「人」という言説が用いられただけで満足せず、その言説がいかなる〔実物=基体〕に対して用いられたのかと、その〔言説〕設定の基体(gdags gzhi)がどのようなであるかを考察し、探し求めてから措定するならば、〔その〕人は自らの定義的特質(rang gi mtshan nyid、自-相)によって成立していると措定するのである。自部(=仏教徒)の毘婆沙部から中観自立派にいたるまでのすべてのものが以上のように主張するのである。
 同様に色・受などの有為法から無為法に至るまでの全て、〔たとえば〕経量部が障碍の触を排除するだけの絶対否定(med dgag)を虚空と設定するものに至るまでの全てのもの、すなわち量によって〔認識されて〕成立すると主張する全てのものを、存在するものとして措定するとき、(LN, pp.142-143)

「その語の意味するものの実体が何であるかを考察し、それが確認されて初めてその語の対象が存在していると設定できる」と、帰謬派以外のものは主張する、というのがツォンカパの理解である。たとえば、「この人がこの業を積み、この果報を受けた」と言われたとき、その「人」という語が指している対象が何であるかを確認できて初めて、この言明が妥当性を持つことになると実在論者は考える。

 もちろん自立派は中観派であるので、そのような「人」という語の対象としているものが「勝義において」存在しているとは認めない。しかし、我々の日常の世界においては、それは単なる言葉ではなく、対象の側に何らかの根拠があって成立しているものと自立派は考える。それ故、それらは人の意識に完全に還元されることなく、他の人にとっても共通に成立する客観的なものが認識の外部にあると認めていることになる。

 言葉によって名指される対象そのものではなく、そのように名付けられる根拠を問うことが、帰謬派によって批判される実在論の立場を特徴づける格率となる。これに対して帰謬派は、そのような名指される対象が対象の側において(すなわち意識の外において)根拠付けられていることを否定する。すべての存在は、名付けられただけのものであり、それ以上の根拠はどこを探しても得られない。我々の日常世界において有意義な言明が成り立ち、そしてそれに立脚して我々の日常的な行為が成り立つということのみが、それら名指される対象の存在の有意義性を保証しているのである。このことは、実在論者にとっては受け入れがたい虚無論と映るであろう。こうして実在論者は、中観派(帰謬派)を虚無論者として批判することになる。

 それに対してツォンカパ(あるいはツォンカパが考える帰謬派)によれば、命名されたものの根拠を探し求めても、どこにもそれを見付けることはできない。したがって、すべての存在は名付けられただけの存在であり、その命名の根拠になるような実体はいかなる意味でも存在しない。このような、名付けられただけの存在によって、どのように有効な因果関係が成り立っているかについては、その後の議論で説かれる(もちろん、この著作では、ということであり、同じ問題は『ラムリム・チェンモ』の時代から一貫して主張され続けている)。

 今、ここで強調したいことは、帰謬派にとっての否定対象である「自性(あるいは自-相)によって成立するもの」をツォンカパがどのように設定しているかである。この著作で特徴的なことは、それが言語論的な視点から語られているということである。他学派は、言葉によって名付けられたものの根拠を探し求め、それが得られたときに初めてその対象の存在を措定できると考える。帰謬派は、そのようなものを探し求めても得られないが、対象の存在は措定できると考える。そこに相容れない対立点があるとツォンカパはこの著作で主張しているのである。

 ただし、この問題にはいくつかの限定が付される。まず第一に、ツォンカパによれば、帰謬派以外のすべての学派は、存在をこの格率によって措定していることになるが、ツォンカパ自身はその典拠を挙げているわけではない。彼の考え方の元になっているのは、チャンドラキールティの『プラサンナバダー』におけるディグナーガ批判の一節である。しかも、もともとの文脈とは異なった議論で用いているのである。これが典拠であるとすれば、そのチャンドラキールティのディグナーガ批判の背後にある考え方を取り出し、それを自立派批判の文脈に転用していることになるあろう。

 もう一つ注意すべき点は、この「自性(自-相)によって成立するもの」の議論は哲学者(すなわち学説論者)が行っているものであって、それ以外の普通の人は、特にこのようなあり方を問うことなく日常の言語活動を行い、しかも対象がそれ自体で成立しているという倒錯した見方をしているということである。すなわち、ツォンカパがここで「自性によって成立するもの」を問題視し、それを批判しているのは、そのように主張する学説論者に対してだけであって、そのことによっては有情を輪廻に縛りつけている根本である無明を特定しているわけではないし、それを否定することができるわけでもない。この二つの議論の違いは、いつも明示されるわけではなく、我々が個々の議論のコンテキストから読み取らなければ、ツォンカパの意思を正確に理解することはできないのである。


 世俗においても「自性によって成立しているもの」を認めないという主張は、ツォンカパの根本的な主張として初期から後期まで一貫しているが、「名付けられた対象の実物を探して得られたること」ことによって「自性によって成立するもの」が設定されるという言語論的な格率は、この『善説心髄』以外にはあまり見られない。(実際には、後期の『ラムリム・チュンワ』の二諦説の箇所(LMChung, pp.106, 108)と『密意解明』の自己認識批判の箇所(Zhol版159b3)にも現れるが、議論としてではなく単に言及されるに過ぎない。あるいは検索の漏れもあるかもしれないが、それにしても、議論の対象とはなっていないだろう。)では、他の著作で「自性(自相)によって成立しているもの」がどのように規定されるかについては、また別の機会に述べることにしたい。

2014年7月20日日曜日

有と無の四つの様態の区別と幻の如き存在

 中観派の帰謬の勝法の基本的な主張の一つに、

  1. 単なる存在
  2. 自性による存在
  3. 単なる無
  4. 自性の無
を区別するという表現の仕方がある。このうち、2は有辺に陥り、3は無辺に陥り、1と4が同時に相即してなりたつことが、中観派のみの主張する勝法ということになる。

 しかし、「幻の如き存在」というのは、この四つのカテゴリーの中には位置を占めていない。にも関わらず、『ラムリム』からすでにこの表現は何度も用いられている。

 この四つのカテゴリーは、何があり、何がないか、ということについての、複雑な位相を持った表現である。「一体そもそも何が存在するのか」というような単純な問題ではない。表現は単純であるが、有と無が関連して述べられることによって、見かけほど単純にシンメトリカルな内容を持っているわけではない。

 しかし、いずれにせよ、これは存在・非存在のあり方の分類であり、しかも正しいものだけではなく、否定されるべき誤った設定も一緒に述べられているものである。

 ところが、「幻の如き存在」というのは、存在あるいは非存在のあり方ではなく、そのように認識する人の判断である。すなわち、中観の見解を得た人によって、あるいは聖者の三昧知の中で諸法がこのように理解される理解のされ方、捉えられ方である。

 昨日挙げた『三つの捉え方」というのが、まさに、存在・非存在の様相ではなく、それを存在論的前提としながら、それがそれぞれの段階の人にとってどのように捉えられるかという問題になっている。

 この区別を付けておくことは、中観派の不共の勝法の思想における幻の如き存在の位置づけと評価を考える上で、欠くことのできない観点となる。しかも、同じ認識主体との関連で二諦が設定されるツォンカパの後期の二諦説とも、似ているところと異なったところがある。幻の如き存在という表現は後期に至るまでずっと用いられ続け、たとえば『ラムリム小論』でも一節を充てて論じられている。

 同じような思想を巡って、様々な表現をしているツォンカパの中観思想だが、それらが似ているだけに、その微妙な違いを明確に意識することは是非とも必要なことだと思う。

2014年7月19日土曜日

単なる存在と幻の如き存在

 忘れないようにメモしておく。

 幻の如き存在というのは、後期に至るまで生き残る中観派の不共の勝法の思想そのものであると思って来た。もちろんその一部をなしていると言えるだろうが、ただ、縁起と空性という分け方をしたとき、その縁起あるいは現れの側面、あるいは、単に存在していると言えるもの、つまり言説有と、幻の如き存在は別のものだった。

 『ラムリム・チェンモ』の自立論証批判の箇所に、芽を捉える知に三つの捉え方があると言う。
  1. 芽に、それ自体で成立している自性があると捉える「真実に存在しているという捉え方」
  2. 芽はそれ自体で成立しているものではないが、幻の如くに存在していると捉える「偽りで存在しているという捉え方」
  3. 真偽いずれによっても限定されずに「一般的に存在しているだけという捉え方」
である。この2と3が異なった捉え方であるということが、きちんと書かれている。中観の見解を得ていない衆生には、1と3はあるが2はない。つまり幻の如き存在という見方はできないのである。

 これらは、後期の二諦説が、それを捉える意識と相対的に設定されるのとは必ずしも対応していない。1は後期の世俗諦であり、2は後期の唯世俗であるが、3は言説有ではあっても、二諦の中に位置を占めていない。逆に後期の勝義諦は、この3つの捉え方の中には見られない。

2014年7月13日日曜日

帰謬派にも主張はある?

 一部の人たちは、ツォンカパの思想の根本的な動機の一つに、帰謬派にも積極的な主張があるということを主張することがあると考えている。

 これは、「正しい見解」(正確にはlta ba「見解」としか言わない)と、「承認すること」(khas len)との区別に無頓着な理解ではないだろうか。

 前述の「レンダーワへの書簡」でも「道の三種の根本要因」でも、解脱の因の根本としてあげられているのは、出離の心と菩提心と見解とであり、この見解が中観帰謬論証派の中観思想、特に中観派の不共の勝法と呼ばれるものである。この正しい見解がなけば、いくら出離の心を起こし、菩提心を起こしたとしても、それらを支えて一切智者へと向かうことを支えることはできないのである。

 そもそも輪廻の根本は無明であり、無明とは明がないこと、すなわた無知なことである。闇に光が現れることで闇が消えてなくなるように、無明を滅ぼすためには智慧が必要である。智慧が現れることで無明は消えてなくなる。そして智慧とは真実についての正しい理解の究極のものである。真実とは仏教においては空性以外にはない。そこで空性について、そしてそれと不可分のものである縁起についての正しい見解を持つことが、無明を滅ぼす必要不可欠の条件となる。

 しかし、「承認」という言葉はそのような正しい見解について用いられることはない。これは、言説に世界における言説的行為(つまり、言葉を用いて話をしたり考えたりする日常の行為)について、それを実体的に執着することなく、その言説の世界における因果関係が成立することを「承認」することに他ならない。これはもちろん、縁起を正しく評価することであり、そのことが正しい見解の一部を構成するのではあるが、要するに言説の世界が縁起していることを「承認」する必要があるということであり、これを「承認」せず、言説の世界を否定することによって勝義に達するという見解を否定するために言っていることである。

 確かに帰謬派は言説の世界を「承認」するが、そのことが「積極的な主張がある」という意味でないことは、以上で明らかであろう。

ツォンカパが聖文殊の教えをレンダーワに書き送った書簡(前半)

 次の日と書いたが、『聖文殊の教えのレンダーワへの書簡』の翻訳がなかなか進まない。たぶん永遠に終わらない気がしてきた。分からないところが多すぎる。テキストにも問題がありそうである。いくつかの版を見たが、文字は同じであった。口語的な表現らしきものも多い。もっと丁寧にゲシェに教えてもらう必要があるだろうが、とりあえず、間違っていることを承知で、半分くらいまで文字化したので、それを掲載しておく。雰囲気は伝わると思う。

ジェ・ツォンカパに聖文殊が教えられたことの中から、結論のみを要約して、ご恩の大きい師匠であるレンダーワに書簡にして差し上げたもの


 〔聖文殊との対話の中で〕生じた、信頼できる事柄(yid ches kyi gnas)と考えられることには、信頼できる印がたくさんあるけれども、〔ここに〕書き記す余裕はないので、要約して記すならば、私に、〔何かを〕判断するような見解〔全て〕を離れる〔ことが〕帰謬派の教義であると修習していたけれども、〔聖文殊に〕よくお伺いをたてたところ、「まだ理解できていない理由がある」とおっしゃった。

 そこで、長い間、議論と考察を行い、「帰謬派の哲学には、このようなことが必要となる。あなたの心には、このようなことしかない」などたくさんのことを〔聖文殊は〕おっしゃった〔が、それら〕は、聖父子(ナーガールジュナとアーリヤデーヴァ)のテキストと一致させておっしゃったことであるので、〔私が〕理解できていない〔だけだ〕と知った。

 そこで、〔帰謬派の哲学を〕理解できるようになる方法をお伺いしたところ、教えて下さった〔方法〕を実践したことによって、今は、これまで理解できていなかった縁起の自性を初めて理解でき、大きな確信を得られるようなことが起こったのである。

 それについても、一般的には空である〔ことを理解する〕ことによって有辺(実体的実在論)を退け、〔諸存在が〕現れている〔現れ方を理解する〕ことによって無辺(虚無論)を退けるというこのことは、ローカーヤタ(順世外道)に至るまで共通した〔考え方〕である。

 それに対して帰謬派の〔不共の〕勝法では、〔諸存在が〕現れること〔を理解すること〕によって有辺を退け、〔諸存在が〕空である〔と理解する〕ことによって無辺を退ける。また空〔であるもの〕が因果〔関係にあるもの〕となることを知る必要がある。

 そして、輪廻〔から〕涅槃〔に至るまで〕の諸存在は、因に依って果が生じ、〔その因果関係が〕整合性を維持していること(mi slu ba'i tshul)を自らの心において承認し、その〔因果関係の整合性〕によって一切の辺(実在論と虚無論)を退けるという空になることなど〔の話〕を無量にあるいは詳細に〔行った〕。

 要約すれば、考察されない、あるいは相手の立場で、あるいは言説として因果〔関係〕は欺くことがないこと、考察したならば、あるいは自説においては、あるいは〔ものの〕実相(gnas lugs)としては、欺くとも欺かないとも設定することができないというような〔見解は正しく〕ない。

 考察されないということの意味は、欺かないこと(テキストはslu baだが、bka' 'bum thor buにおけるレンダーワ宛て書簡ではmi slu baになっている)であると理解し、考察したならば「これである」と〔確定的な判断は〕得られないことから、今度は、因果〔関係〕を理解して、その二つ(=縁起と空)が同一の基体に適用されることを考えて、縁起と空が分けられないと言うのでもない。原因によって結果が生じることが欺くことがないと理解する、その同じ知によって、他の知に依ることなく意識を向けられた〔対象〕が消滅するという空もまた成立すること、そして因果〔関係〕が欺かないという論証因だけで、他の論証因に依ることなく有辺〔や無辺〕などを離れた空が成立することから、因果〔関係〕が欺かないことについて根底からの確信が引き出され、他ならぬそのことによって意識の向けられた対象全てが消滅し、何も思い込むことのない〔覚り〕もまた得られのである。

 以前にも、そのような言葉は後に〔根底からの理解が得られたとき〕と変わらずにあったけれども、確信はずっと引き出されなかった。我々の考えについて私が理解していないならば、私と先生(レンダーワ)は違いがないので、先生もお考えにならないと思って〔この手紙を〕差し上げたところ、我々には考えがあるけれども、詳細は何も知らないとおっしゃった。

 それ故、〔哲学的〕見解(ものの見方)の究極的な本質はこうであり、行のデリケートな本質や、実践の道になるかならないか、顕密の非常に難解な本質などについて、以前には疑問があり、考察して〔も、理解〕が得られなかったことが、正しい論理の力によって論証されることを知ったことにより、疑問の匂いさえも無くなって、信頼が生じたのである。

 〔聖文殊は〕この〔帰謬派の〕学説に関して現在〔行われている〕講義と聴聞、修習と実践という二つ〔のうち〕講義と聴聞を重要視なさり〔次のように説かれた〕。一般に法門はたくさんあるけれども、解脱の因になるのは三つである。すなわち、出離の心と菩提心と見解とである。現在、この三つについて〔自分の身に付いた〕経験が生じたものはおろか、この三つについての正しく理解するものも稀である。

 この〔三つの〕うち、最初の二つを理解することでは、解脱の種を植えることはできず、最後〔の見解〕の力が強いので〔それによって解脱の種を〕植えることができる。

 それについても非常に努力して、そのイメージに心を向けて、〔それに〕習熟した力によって心が変化したら、努力を伴った経験が生じるので、それによって解脱の種を植えることはできるけれども、道の終端には達しない。

 輪廻における安楽と財産や衆生のことを心に思っているだけで、出離の心と菩提心が常に湧き起こる経験が生じたならば、〔それは〕資糧〔を積む〕低い段階であると考えるのである。

 輪廻〔において〕体験すること〔デメリット〕と、解脱のメリットを理解する正念正知(dran shes)を常に行って、〔輪廻におけるデメリットの〕体験に心が向かわせず輪廻の禍患を断ち切り(bcar -> bcad)、解脱のメリットに心を持して、そのイメージに習熟して出離の心の経験を生じさせずに、布施、戒律、忍耐、精進、禅定という善根に習熟しても、解脱の因には決してならないので、解脱を求める人は最初に、深遠な教えであると言われるもの全てを措いて、出離の心の考察を修習すべきである。

 大乗を実現する人は、自利に心を向けるという過失と利他のメリットを今すぐに正念正知を行い、菩提心の経験を生じるためのイメージトレーニングを行わないならば、他のことを何をしても〔覚りへの〕道〔を行くこと〕にはなりえない。なぜならば、もしそうでないならば、諸々の善根が自利に左右されて、劣った覚りの因にしかならないからである。たとえば、出離の心を正念正知しイメージトレーニングをしないならば、全ての善は〔輪廻の〕デメリットに左右されて、ただ輪廻の因となるのと同様である。

 したがって、密教などについての深遠だと言われている教えを捨て措いて、最初に出離の心と菩提心の経験を生じることを願うべきである。

 それが生じたならば、それからの全ての善は、解脱と一切智者の因に自然となっていくので、したがって、この〔出離の心と菩提心〕を修習することは価値がない(rin mi chog pa)とすることは、道の本質を全く知らないものである、と〔聖文殊は〕おっしゃっている。